2003/3の本・弐:
「佐藤さとるとファンタジー」
「ぼくは魔法学校三年生」てのり文庫(大日本図書):村上勉(画)
内容には、関係ありません・・・(爆)
「佐藤さとるとファンタジー」
ものごとには、始めがあるように終わりもある。このコーナーも2年続けてきたが、一応の区切りをつけたいと 思うようになった。原因は2つある。
一つめは、マンネリ化である。最初は反響もあり、読み手も書き手も、良い意味で緊張感があったと思う。しかしながら、今は無くなってしまったような気がする。(すくなくても私にとっては・・・) とくに書き手の自分を振り返ると、文才の無さに唖然とするのだ。2年間も佐藤さんの作品を精読すると、新たに佐藤さんの作品のきらりと光る一面を発見することがある。これは得難い経験だった。ただ残念なことに、この感動というか、発見を紹介する言葉、媒介するパラグラフが出てこないという事実になんとも歯がゆい思いをしたのも事実である。
2つめは、児童文学、とくにファンタジーについてツラツラいろいろと考えることが多くなったことである。同時に、「読む」ということ、「読書」ということ、「本」という媒体について考える事も多くなった。そういう思いの中、新たな方向から「佐藤さとる」さんの作品に迫りたいという思いが沸いてきたのである。
話はそれるが、ひこ田中さんの「児童文学書評」のHP中の中に「おばあさんの飛行機」論という有名な評論がある。(三宅興子氏) まあ、誤解を承知で簡単に批判の内容を述べるとすると「このあばあさんは、せっかく編み物で飛ぶ飛行機を作ったのに、なんにも得るものがなかったじゃない。おまけに、編み物までやめて、子供の所に世話になってしまうなんて、許せない。」という主張である。
この評論は、ある面、佐藤さとる文学の本質の一つを鋭くついている。しかし、私から言わせてもらえれば「なぜ、おばあさんの飛行機」を、後生大事にかかえて、「一生に一度、巡りあえる絵本」としている人がいるのか?という観点からは、まったく触れられていないことが、不満であった。
コロボックルにしろ、赤んぼ大将にしろ、おばあさんの飛行機にしろ、どの作品も、佐藤さとるというファンタジーの名工から紡ぎ出され、織り上げられた布である。その布に安易に「効果」とか「主義主張」を求めても単なる布で終わってしまう。その布から、読者それぞれのものを作り上げる作業が必要なのだ。それが、ファンタジーの持つ、独自性であり、難しさなのではないか? だからこそ、背景の緻密さ、情景描写のリアルさがあればあるほど、そのファンタジーの世界は奥行きを増してくるのだ。
そんな理由から、佐藤さとるのファンタジーの虜となった一人として、そのファンタジーの紹介だけではなく、もう少し違った関わり方を模索したいという希望、思いが生まれてきた。
どういう結果になるか自分でもわからない部分が多々あるが、今後、これまでとは違った切り口で佐藤さとるさんのファンタジーの世界へご案内するコンテンツを立ち上げるべく、新規の企画を用意するつもり。
あんまり期待しないで、お待ちあれ。