水無月の本・壱
「わんぱく天国」



「わんぱく天国」 講談社 青い鳥文庫:村上勉(画)


 オーストリアの詩人リルケは「若き詩人への手紙」の中で、「恋愛を題材にしてはいけない。それは、過去のすぐれた文豪たちと勝ち目のない競争をすることだ。自分の子供時代に目を向けなさい。そこには、すばらしい詩の題材があふれている」という忠告を展開している。詩人に「恋愛をテーマにするな」とは非情だが、「自分の子供時代に目を向けろ」という忠告は、当を得たものだろう。

 子供時代に目を向けるということ。その視点から見たお話、と来れば、「わんぱく天国」である。舞台は按針塚。まさに佐藤さんご自身のホームグラウンドでもあった場所を舞台に、戦前の子供たちの生き生きとした姿を描くこの話は、あざやかで、懐かしさをもたらすプレゼントである。そして、どこか見たことのある風景を私たちに見せてくれる。

 からっとした明るさで全編が語られる「わんぱく天国」は、ある意味「ありそうでない」作品でもある。どうしても、戦前戦後の子供たちの生活を描く話は、「戦争」という暗い影を引きずったものが多い。また、物語の主題も「戦争」から切り離して、語ることはできないという暗黙の了解があるのかもしれないと思ってしまうほど、語り口は厳しい。

 そういう作品群にも、名作は確かにあるし、そのことの是非は、また別の場所で論議されるべきだろう。ともかく、「わんぱく天国」は、私が知っている限り唯一の「戦前の子供たちの遊び」を「主題もしくは中心にすえて」描いてくれた話である。戦前という時代を取り払って考えても、同様なアプローチで書かれた話を私は寡聞にして知らない。
主人公カオルを中心に、按針塚の回りにいる子供たちのなんと生き生きとしていることか。でも、そこから生まれてくる感情は、「うらやましさ」もあるが「なつかしさ」が大きく占めているのだ。戦後生まれで、コロボックルの誕生と同年代生まれである自分を含め、いろいろな世代の読者が同様に感じる(らしい)この想いはなんだろう?

 佐藤氏の丁寧な語り口で、積み上げられるエピソード。昭和も遠くなった平成の今に、当時の子供たちの姿をよみがえらせてくれる。そこには、ありのままの子供たちが、「遊びの王国」を繰り広げてくれる。

 ああ、このお話は上質な心のタイムマシンなのだ。いたずら大好きで、秘密基地をつくり、大事な王冠をなくして泣きべそをかき、虫取りに明け暮れ、宿題を忘れて呆然とし、日暮れの道を、母親の怒った顔を思い浮かべて急いだ、そんな日々のことが、パソコンのCRTの向こうに見え隠れする。それはきっと「かつて子供だった大人」に、「子供だったころ」の風景を見せてくれるサトル印のミラクル・スコープのせいかもしれない。


「わんぱく天国」1970年 単行本 発行。青い鳥文庫、講談社文庫もあったが、絶版
現在は「佐藤さとる全集:12巻」でのみ入手可能。



こちらは、「佐藤さとる全集:12巻」の表紙。おなじく村上さんの画です。


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