弥生の本
「わすれんぼの話」
「佐藤さとる全集12表紙」 講談社:村上勉(画)
「わんぱく天国」「秘密のかたつむり号」「わすれんぼの話」の共通点はなにか? 答えはカンタン。「ありえないことは、おこらない」というのが、正解。ファンタジー作家として佐藤さとる氏は、有名だが、例にあげた3つの作品をはじめ、ファンタジーという範疇にははいらない作品がいくつかある。その中から、「わすれんぼの話」を紹介してみよう。
ある日重男のクラスに、転校生がやってくる。彼の名前は、「石井次郎」。一足先の転校生である重男とは違い、彼は、明朗快活、その上いたずらもやる「がき大将」だった。重男も、もともとはそんなに”引込み思案”の方ではなかったが、転校生として紹介されたとたん、「ポスト」のようになってしまう。
そんな2人だったが、運動会のリレーの選手の選考をめぐって、重男と次郎は勝負をすることになる。判定役は、今まで番長格だった山本くん。勝負は2つ。さて、どうなるか?
「わすれんぼの話」は、複雑な筋があったり、巧妙な伏線があったりする話ではない。重男の心情は語られるが、多くはない。描写でずんずん書き進めてある。
テストでのシーン。目の前に教室で思わず立ちあがった重男。「笑うな」といった次郎。クラスの面々の顔もうかぶ。ざわめきと静寂が、佐藤さとる氏の筆を通して伝わってくるのだ。
そして、ケンカのシーン。迫力万点の描写である。二人の様子がビデオでスロー再生するかの如く語られる。よどみない動きの描写。テンポの良い語り口。真っ赤な顔の二人が取っ組み合いをしている状況は目に浮かぶ。物陰から覗く同級生になったようだ。ケンカのシーンのようなものは、時として後味が悪くなることがあるが、まったくさわやかなものである。算数の問題をつくれと言われて、うれしそうに返事をする山本くんも面白い。
この作品、初出が1963年の「童話」である。そして佐藤さとる氏の初めての短編集「そこなし森の話」に収録された。(この本、佐藤さとる氏自身の編集という、珍しい本でもある) いまから三十数年前の作品という古さなど微塵も無く、その「新鮮さ」に驚く。今では「けんか勝負」は、はやらないかもしれないが、算数勝負はなんだかありそうである。
この話を読むたびに、私の心は小学生の頃にひきもどされる。転校生がもつ、一種独特な不安感と、その垣根を越えて、友人になっていく不思議な過程。私自身は転校生の立場になった事はないが、迎え入れたことはある。その時の自分にふと戻ることができるのだ。小学生の頃の、あの独特な感覚を書ける人は、多くはない。それも、性格ドラマでひとつのストーリーを展開できる作家はさらに少ないだろう。それを堪能できることは非常にうれしいことだ。
もし、あなたがこの話を読んでいなかったら、なにを彼らが「わすれ」ていたか、読んでたしかめてほしい。もしこの話をよんでいたなら、あなた自身も「わすれんぼ」になってもう一度読み返して見て欲しい。佐藤さとる氏の用意してくれた、「小学生のころ」に戻るためのタイムマシンがそこに現れるのだから。
「わすれんぼの話」:初出は、1963年の「童話」。その後、短編集「そこなし森の話」に収録。文庫本「そこなし森の話」にも収録。現在入手可能なのは、佐藤さとる全集の最終巻(12巻)。画像はその佐藤さとる全集最終巻(画:村上勉氏)。
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